「海に住む少女」「セーヌ河の名なし娘」(シュペルヴィエル)

生と死の両側から人の生命を見つめたような幻想小説

「海に住む少女」
「セーヌ河の名なし娘」
(シュペルヴィエル/永田千奈訳)
(「海に住む少女」)
 光文社古典新訳文庫

海に浮かぶ街に
たった一人で住む少女。
彼女は自分以外の女の子が
この世にいることも知らずに
生きていた。
そしてその街は
船が近づくと海底に沈み、
誰の目にも
ふれることがなかった。
波は彼女のために
何かしてあげようと思い…。
「海に住む少女」

セーヌ河に身を投げた
19歳の若い娘が
海に流れ着いたとき、
男が彼女の足首に
鉛の塊を結びつける。
連れて行かれた海の底には
「光る者たち」がいて、
その光で語り合っていた。
彼らもまた死者であり、
海底で生活を
しているという…。
「セーヌ河の名なし娘」

ロマンチックなタイトルにひかれて
読み始めると、衝撃を受けること
請け合いです。
どちらの短編小説も、
死んだ少女の物語なのですから。

正確にいうと、「海に住む少女」は
12歳の娘を失った船乗りの
強い悲しみが生みだした、
残存意志の世界なのです。
少女は自分が何者であるか、
何のために存在しているか、
自分の住む世界が一体何であるのか、
外にはどんな世界があるのか、
まったく知りません。
そこにあるのはどこまでも続く
無限の孤独です。

19歳の「名なし娘」が到達した
「光る者たち」の世界は、
入水自殺した者たちの安息の世界です。
彼らは俗世のすべてを断ち切ったため、
身体に何もまとわず、
言語ではなく光で意思疎通します。
しかし娘は服を脱ぐのを
最後まで拒んだため、
彼らから受け入れられませんでした。
ここにも限りない孤独が
ひそんでいます。

海に消える街も、
水底の「光る者たち」の世界も、
どちらも極めて不条理な世界です。
二人の少女は、
生きることも死ぬことも
許されないまま、
その世界で「存在し続ける」ことを
余儀なくされます。
娘はその世界で生きることを拒み、
自ら重りを外し、
二度目の死を選びます。
結末は百八十度異なるものの、
両者に共通するのは「孤独」です。
それも永遠の「孤独」です。

さぞかし救いようのない
じめじめした作品に思えますが、
決してそうでありません。
作者は淡々とした表現で、
極めてドライにシュールな世界を
描いているのです。

シュペルヴィエルはウルグアイ生まれの
フランス人なのですが、
それぞれの国籍を所有し、
生涯にわたって両国を往復したため、
複眼的な視点を
持つに至ったのだそうです。
あたかも生と死の両側から
人の生命を見つめたような
幻想小説であり、今まで
出会ったことのない作品世界です。

※「セーヌ河の身元不明の少女」として
 次のような事実があるようです。
 1880年代の終わりごろ、
 セーヌ川のルーブル河岸から
 一人の少女の遺体が
 引き上げられた。
 その遺体には
 暴行の痕跡がなかったことから、
 自殺と考えられた。
 パリの死体安置所の病理学者は、
 彼女の美貌に心打たれ、
 型工を呼んで
 石膏のデスマスクを取らせた。
 この娘の身元はついに
 判明しなかった。
 (ウィキペディアより)

※この事件を素材として
 いくつかの文芸作品が
 編まれたようですが、
 そのほとんどは
 デスマスクの方に注目し、
 少女の魂の行方を想像したのは
 シュペルヴィエルだけのようです。

(2020.6.19)

Free-PhotosによるPixabayからの画像

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